高知駅

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高知に来ました。

北口側もすっかりできていて、様変わりしてます。
集成材のアーチの駅舎見上げ。迫力あります。見事に高知の顔になってるんじゃないでしょうか。
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# by NODESIGNblog | 2008-08-23 12:20

「家の風景・風景の家」展

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# by nodesignblog | 2008-04-07 22:26

住宅セレクションVOL.2 展示会

(社)東京建築士会主催のコンペ 「住宅セレクションVol.2 家の風景・風景の家」の入選作品展示会が 、
本日4/5(土)より13(日)まで新宿パークタワー ギャラリー3にて行われています。
http://event.telescoweb.com/node/7940
お近くにお寄りの際は、のぞいてみていただければ幸いです。

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# by nodesignblog | 2008-04-05 15:00

絶対スケール空間 補章

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エクスナレッジからHOME特別編集「住宅デザインの教科書」という本が出た。教科書などと銘打っているが,中身は意外にソフトなもので,塚本由晴さんや西沢立衛さん,隈研吾さん,北山恒さん,堀部安嗣さんなどの現代建築家のインタヴューや,きれいな大判の作品写真が主である。でもそういうミーハー?な部分だけでなく,後半には少し教科書っぽい部分もあって,八束はじめさんや藤森照信さん,富永譲さんなどによる,近代あるいはそれ以前の住宅建築についての紹介や興味深い考察も載っている。実は僕もそこに「50年代小住宅への新たな視点――絶対スケール空間という仮説」という小論を寄せており,日本の住宅デザイン黄金期といわれる50年代について書いている。内容については同書を読んでもらいたいのだが,そこでは書ききれなかったこともあるので,ここで補章として記しておくことにする。

今回僕が書きたかったのは,「絶対スケール空間」という言葉に尽きる。要するに空間の「スケール論」である。僕の勝手な枠組みとしては,「定位論」(「住宅70年代狂い咲き」),「ラウム論」(「ザ・藤森照信」)に続く,空間文化論の第三弾と位置づけている。ここでの「スケール」とは,相対比である「プロポーション」という意味も含まれてはいるが,むしろ人間尺度との関係による絶対的な寸法「サイズ」に近い。またそれは,オーダーの比例関係のような古典主義的なものでなく,あくまでも空間のそれとして考えている。スケールの問題を論じようと思うと,現代では,もはや空間概念抜きには成し得ないのである。というのも,そもそも近代主義の成果のひとつは,スケールをオーダー的なものから空間的なものへと移し変えることで,空間を建築の固有言語としたことにあって,それを通過してしまうと,そう簡単には引き返せないのである。そのあたりの話は,長くなるのでまた別の機会に触れたい。

要するに結論的には,「空間」概念の発見は,建築の固有性への指向の成果として,モダニズムから現代が受け継いでもよい最重要の遺産だと思う。そして,ここでより重要なのは,その空間を抽象的な概念から具体的な現実へと引きつけるうえで,おそらくは50年代の建築家たちによって「スケール」が再発見されたともいえそうなことである。そもそも「空間」といったところで,極めて抽象的だから,ほとんど意味を成さないわけだが,それを「寸法」として理解するという考えは,至極あたりまえのようでありながら,実は大発見であることに気づくべきである。こうした視点を持ちえたのは,世界の建築家を見渡しても,とても少なかった。詳しくは長くなるのでこれもまた別の機会に論じたいが,ともかく日本についてみても,あまり理解されていないことだが,そうした空間についての理解を成しえた建築家は,現代に至るまでとても少ないのである。同書の本文で触れた50年代の建築家のうち,丹下,清家,吉村,吉阪は理解,もしくは直感していたはずだが,なにぶん明確な論を残していないのでわからない。彼らに対して,たとえば池辺陽は厳密な技術的モデュール論は書いたが,空間概念への意識はおそらく希薄であったし,たぶん他の多くの建築家たちの空間概念への意識も,同様に希薄であっただろう。その背景には,戦前の建築家たちがおぼろげに表現し,そして丹下が定式化したような,素朴で,そしてある意味では前近代的な「空間」という言葉の影響力が感じられる。そのような意味で,丹下自身の文章は,本人の意図はともかく,大きな誤解の種になってしまったように思える。つまりそれは実は,あんまり「空間」ではない空間だったのだ。近代が発見した「空間」を当時からかなり理解していた可能性があったのは,丹下の先輩の立原道造だったのだが,残念なことに若くして亡くなってしまった。立原が生きていたら,日本の現代建築の空間概念は相当異なっていたかもしれない。

結局,空間を建築の固有性において理解し,スケール問題を意識的に相対化できていたのは,たぶん60年代末の磯崎新までいなかったように思える。磯崎は丹下が言葉にしなかった部分をかなり裏返した言い回しながら,言葉にしている。その点で僕の見方では,磯崎はポストモダニストどころか,だれよりもモダニストであるし,文化についての倫理的,原理主義的な理解者である。僕が感じている日本現代建築の最大の問題のひとつは,当時そして現代でも,日本の建築家や歴史家たち,そしてメディアが,建築をいつまでもヴォキャブラリーのスタイル程度にしか捉えられていないと思われることだ。だから,たとえば磯崎新に対する理解すらも,その範疇にとどまってしまっている。事実,磯崎のフォローアーの多くは,むしろ建築をその外側(宗教や数学やゲームや流通制度など)から解体しようとしたことは象徴的であるし,それらの多くは長続きできなかった。あるいは建築家よりも,ある種の評論活動を伴う歴史家の発言の方が問題だったといえるかもしれない。なぜかはわからないが,日本のメディアでは,歴史家がご意見番のような役回りを演じさせられているフシもある。たとえば歴史家の藤森照信は,建築家を赤派と白派に分類しているが,その分類自体が空間を問題にできていない。八束はじめも書評で指摘しているが,藤森の丹下健三論をみても,その空間に対する関心の希薄さは明らかである。つまり彼自身の作品も含めて,現代日本建築の多くは,ヴォキャブラリー優先の前空間的=前スケール的な様相に属する点で共通しているのである(それらはとっても,「単に」フォトジェニックなのである)。僕は赤派とか白派とかの区別よりも,そういう空間やスケールに対する認識についての違いの方に関心がある。しかし結局,磯崎に続く世代で,空間や文化の問題からスケールについて意識的に理解しようとしたのは,僕の知るなかでは坂本一成ぐらいしか思い当たらない。そしてその後もなかなかいない。たとえば現代作家のなかでも,かなり建築を構成的に捉えているといえそうな青木淳は,青森美術館でその巨大なスケールがもつ意味について述べていたが,彼のスケールには磯崎や坂本が確実にキープするような,ある種の文化との接続が希薄すぎる。そのためゲーム的に見えてしまうように感じる。しかしそれでは構成の図式に舞い戻ってしまうのである。

では,なぜ空間や文化の問題から建築の固有性,スケールの問題について理解しないとまずいのか。それ抜きには,結局建築がヴォキャブラリーや構成図式のスタイルと化してしまうような気がするからである。では建築は所詮スタイルであってはまずいのだろうか?・・・これに答えるには,また長くなるので,別の機会へ譲ることにする(つづく)。(N)
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# by nodesignblog | 2008-03-07 01:18 | 見聞

住宅セレクションVol.2 家の風景・風景の家

(社)東京建築士会主催のコンペ 「住宅セレクションVol.2 家の風景・風景の家」に入賞しました。
入選作品展示会が 、4/5~13日に新宿パークタワー ギャラリー3にて行われる予定です。
審査結果ページはこちら
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# by nodesignblog | 2008-03-03 17:01

1月29日

東工大田町キャンパスで開催される講演会で話します。
「地域・コミュニティの活性化」がテーマの講演会で、2人講演するうちの1人です。

「建築によるコミュニティの活性化」という演題(汗)。
鳥取でお手伝いした仕事を含めて作品紹介します。
18:30から、30分くらい。
ご都合のつく方はご連絡ください。
(お)
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# by nodesignblog | 2008-01-28 15:56

自家製○○

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先日打合せで高知へ。
写真は高知名物(と銘打ってあるお店の)屋台餃子。何個でもいけます。

高知でも少し珍しいカツオの塩タタキも載せたかったのですが、写真をとりわすれました。高知市内の「座くろ」というお店です。塩タタキのお店は他にも数件あるそうです。座くろには、若いオーナーシェフ(?)の作った自家製の濃い醤油があって、それが甘くておいしいのです。醤油を味わうために冷奴を注文する感じです。是非試してみてください。

案内してもらったN村さんによれば、千葉の銚子のほうでは、自宅で醤油を作る文化が残っていて、醤油を絞ることが職業として今でも成立っているそうです。
うちは自宅で祖母が生前味噌を作っていました。作った味噌は大きな甕に入れて床下で寝かせます。当時は珍しいことではなかったと思いますが、6人家族の1年分ですから量が多い。直径80センチ、高さ1mはあろうかというくらいの甕が3つも4つも。祖母にとっては、味噌は買うものではなくて作るものだったようです。楽しみで少し作るということではなかったですから。1年間味噌をたやさない!という責任といいますか。どこからその意志は来るんでしょうか・・・。

そういえば、先日実家で15年もの位の自家製梅酒を飲みました。祖母が作って例によって床下へ入れて、その後亡くなってしまったので誰も気付かず、引越しで家を壊す際に、荷物の整理をしていたら出てきたと。梅ジュースもあって。おいしかったです。
ありがと、おばあちゃん!(と言わずにいられない。)

季節が来たら梅をつけて、トマトができたらこれもまた大量にトマトジュースをつくり、今度は大量の大豆を煮て味噌を作り、お正月前にはおもちをつき(これは機械でしたが)、、そういう生活が少なくとも高校のときまでは身近だったのですが、全く受け継いでません・・・。
(お)
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# by nodesignblog | 2008-01-25 18:10

ホスピタリティ

先日、あるまちづくりの講演会に行ってきました。
何度か行ったことのある小さな町です。

講演会は盛況で用意してある椅子は満席。主催者もにこやかで、他の市町村から参加している方も大勢いて、「この町のファンです」とおっしゃる方が多い。
町で2年に1回開催されるお祭があります。お祭のある2日間は、通りに面した自宅の客間(?)を開放して、料理を並べ、誰でも入って行って食事が出来るという、歓待の極みみたいなお祭だそうです。なので、家の新築・改築の際もそのお祭にあわせて、通りに面して大きく開ける広間を設けるのだそうです。

最近読んだ、「『聴く』ことの力-臨床哲学試論」(鷲田清一著)に、客を迎えることについて書いてあるところがあります。「客を家に迎えるということは、主人である自分の立場を相手に譲ること」というようなことがあります。

ずいぶん前に知り合いの医師からきいた、「『逆』という漢字の意味に『(客を)迎える』という意味がある」というお話を思い出しました。そのとき、なぜそういう意味があるのかまで話が至りませんでしたが、もしかしたらそういうことかと。先の本に倣って、客人を迎えるということは、主人である自分の立場を迎え入れた客へ譲ること、立場が逆転するということ、それがホスピタリティ(歓待)の精神である(文中で、ホスピタリティは「歓待」と訳せると書かれています〉、と考えるとかなり腑に落ちます。少なくとも「旅館」が「逆旅人家」と書かれた南宋の時代には、そういう精神があったということでしょうか。医師にはまだお話してませんが。

決して派手ではありませんが、地道に少しづつ、まちづくりがなされてきたことが伺えます。近くの市町村から、山ひとつ隔てた「僻地」であることが独自性を維持できてよかったともいわれていましたが、もしかして、ここには伝統的にホスピタリティ(歓待)の精神が強いのではないかな、と感じました。

また、同著「『待つ』ということ」に、「待つ」ことについて書いてあるのですが...。
「何かの到来を待つといういとなみは、結局、待つものが待つことを放棄したところからしかはじまらない。待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの開けがあるからである。・・・・・・何が到来するのかわからないままに、何かが到来しているということじたいにきづくこともなく、それでも何かの到来を迎え入れる用意があることも〈ホスピタリティ(歓待)〉となづけることも可能であるかもしれない」とあります。(「待つことを放棄」というところは誤解をうむかもしれませんが、説明しきれません。すみません。)

こころを開放して、あせらずゆっくりなされてきたひとつひとつの行いが、ふりかえればまちづくりになっていて、他の都市からも視察がくるような成功例のひとつになっているのでは、と思いました。

傍から見ていての無責任な感想です。
渦中では、ご苦労もたくさんあると思いますので、、、。

それにしても、鷲田清一の上の二つの本は、知人曰く「地味に攻撃力が強い」内容です。「悩みながら書いた」とあとがきにあるように少し読み進みにくいところもあって少しクセもありますが、おもしろいと思いますよ。
(お)
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# by nodesignblog | 2008-01-25 15:22

あけましておめでとうございます

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旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
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# by nodesignblog | 2008-01-05 09:07

日経アーキテクチュア

e0105010_19394437.jpg日経アーキテクチュアの2007年11月26日号に、老人ホーム「グリーンヒル」が掲載されました。「ケーススタディー 高齢者・医療施設 -発想の転換が求められる時代に」(p.84~)の92頁「吹き抜けを介して積層する都心の住まい 有料老人ホーム グリーンヒル(名古屋市)」です 。

設計を始めた2002年頃は、老人ホームの建設ラッシュで質より量という印象の施設がたくさん出来ていたと思います。ある規模の施設はどこでも同じようなインテリアで、あまり動けない人や自由に出掛けることができない人は息が詰まるだろうという印象でした。その後総量規制があり新しく建てることは難しくなったようですが。

老人ホームへ入居する際には、住民票を移し以前住んでいた家を引き払って越してくる方もいらっしゃいます。また、制度の変化も激しく影響も受けやすい施設なので、老人ホームという用途の前に単純に人が長く接する(住む)建物として空間の骨組みをつくることを考えました。

敷地周辺は建物が密集した地域です。そこで100人近くが生活するので、どうやって閉塞感なくのびのび生活してもらおうかというのが全体の建物の骨格を決めるメインのテーマとなりました。結果、道路側(外部)に面して、食堂やラウンジなどの共用部を各階に設けて、それを各階で位置のずれた吹抜けでつなぎました。吹抜けは建物全体を立体的につなぎ、じっとしていることが多い老人の方でも、少し見上げると外部や他の階の様子がうかがえます。

ライターの方には、朝の10時から夕方7時まで熱心に取材していただきました。 まず我々設計者、次にクライアント、施設長、介護スタッフ、その次は居住者の方へ。設計者は竣工後の建物にお邪魔する機会は少なく、ましてユーザーのお話を伺うこともめったにないのでよい機会でした。

居住者や介護スタッフの方へのインタビューも近くで聞いていましたが、我々がこうなったらいいなと思っていたことが予想以上に起こっていたので目頭を熱くしたところです。5階でボール遊びをしている様子が上階からも見えるので興味をひきやすく、スタッフが「○○さんもやりますか?」と他の階の居住者へ声をかけやすいとか、3階の食堂で映画上映会をしていると、ちゃんと観たい人はそこへ集まるが、大勢人がいるところへ行きたくない方は4階から観ているなど、、、。総じてコミュニケーションが起きやすいようです。ラウンジや食堂の共用部も竣工後3年経って各階に特徴が出ていて、画一的になりやすい室内でバリエーションのある場所が出来ていました。運営面や立地条件がよいことがまず印象をよくしているようでしたが、建物についても概ね満足されているようで安心しました。

ご協力くださった皆さま、ありがとうございました。
(O)
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# by nodesignblog | 2007-11-26 19:42