鳥の劇場09 年度プログラム<いっしょにやるプログラム>

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鳥取で、ワークショップをやります。

鳥取を拠点に活動する劇団「鳥の劇場」のプログラムの一貫で、T*O(タカマスヨシコ+おくやめぐみ)の
おふたりと、私が参加します。

「空間についてのワークショップ」と、なんとも広大な解釈のできるお題をいただきました。
いろいろ調べてみると、美術館や学校などいろいろなところでワークショップが行われているんですね。
建築、演劇、工芸など。建築関連だと、まちづくりや、建物のつくりを理解するもの、広場をつくるなどさまざま。

悩みましたが、いつもやっていることをやろうと(いつもと違うことをやるのは難しい)。
今までの物件を例に、「みてみる」「かいてみる」「つくってみる」の3ステップで、事例を紹介したり、
実際にスケッチや模型でどうやって設計するのかちょっと体験するようなことを考えています。

設計の楽しみ(悩み)、共感してもらえるかなあ(笑)。

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鳥の劇場09 年度プログラム<いっしょにやるプログラム>
舞台芸術の講座9 建築家に空間のことを教えてもらう
場所:鳥の劇場(鳥取県鳥取市鹿野町)

7 月25 日( 土)13:00~15:30 実物大・立体着せ替えハウスワークショップ
講師:T*O(タカマスヨシコ+おくやめぐみ) 、対象:小学3 年生~大人

7 月26 日( 日)13:00~16:00 いっしょにやるケンチク問題集 キョリ・スケール体験ワークショップ
講師:小倉亮子(NODESIGN)、対象:中学生~大人

(パンフレットより)
演劇以外の分野のアーチストによるワークショップを初めて開催します。今回のテーマは「建築」です。
二人の建築家に、建築の仕事のおもしろさを紹介してもらったり、どんなことを考えながら仕事を進めるのかを教えてもらいます。
子供から大人まで楽しめる内容です。夏休みの週末、建築を通じて創造の喜びやたいへんさを体験してみてください。

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「立体着せ替えハウス」にはそのネーミングと楽しげな雰囲気で、前々から気になっていて・・・。
こんなにダイレクトに触れる機会があるとは嬉しいです(見学する気満々)。

私は26日(日)です。
お近くの方はぜひお越しください。

(O)
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# by nodesignblog | 2009-06-10 20:16 | お知らせ

隈研吾 (続・エコノミック・コレクトネス論) その1

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もう去年のことだが浅草のコンペ以降、その結果について周囲の建築家の方たちの感想を伺う機会が多かった。我々の案は、僕が尊敬する諸先輩方にはおおむね好評でうれしかったのだが、最後はやはりどうしても一等の隈研吾さんの案の話になる(その内容については、惨敗した者としてはあえて触れない)。いずれにしても、浅草コンペに限らず、隈研吾さんの名前は、最近の雑誌などで名前を見ない月はないくらいだが、やや話題性が先行していて、その作品や思想についてはあまり論じられたことはないように思う(隈さんに限ったことでもないけど)。なので、ちょっと僕なりに書き留めておきたくなった。

個人的には、もう十年以上前になるが、建築文化という雑誌(現在休刊)の懸賞論文で、僕の拙文を一等の下出賞に選んで下さったのが他ならぬ隈研吾さんだった。それは「東京定住女子校生ハードコアとエコノミック・コレクトネス」という小論で、商業資本主義化した現代社会でのたくましい生き方を,女子校生(女子高生ではない)をモデルに「エコノミック・コレクトネス」と名づけて論じたものだ。それは当時流布されていた政治的正当性=「ポリティカル・コレクトネス」に対して、より経済的、流通的、大衆的な意味での形式的なあり方を突き詰めることこそが生き抜く力になることを仮説にしていた。それはよくも悪くも、現在まさにリアルな論となっていると思うのだが、今思えば、隈さんの建築家としてのあり方は、ある意味では「エコノミック・コレクトネス」のひとつのモデルともいえる気がしている(これについては後で述べる)。またちょうどその頃,東工大の非常勤講師にも来ていただいて,大学院生だった僕はたまたまチューターでご一緒させていただいた。覇気のない学生たちに向かって「そんなんじゃ誰も設計なんてさせてくれないって!」といって憤慨していた姿は忘れられない。

当時隈さんは,亀老山展望台(1994、上画像:www1.linkclub.or.jp/~ida-10/ehime1.htmlより),水/ガラス(1995),森舞台/宮城県登米町伝統芸能伝承館(1996,97年建築学会賞)などを発表した頃で,地形化や、ガラスや水を使った表現が目立ってきていた。今の学生世代はあまり知らないかもしれないが,それ以前の隈建築といえば,ドーリックやM2(ともに1991)など,歴史的なヴォキャブラリを多用したポストモダン調の作風で知られていたから,その転向ぶりは良くも悪くも話題になった。しかしそんなことにはお構いなく,その後も隈建築は,馬頭町広重美術館(2000,村野藤吾賞)にみられるような,様々な素材を活かしたルーバーを多用するスタイルへとさらに変わっていった。このような華麗な変幻ぶりは,ときとして気まぐれな転向だとか、信念のない単なるご都合主義だという批判を浴びてきたが、果たしてそうなのだろうか。

当時授業のレクチャーで隈さんは,自作の写真を見せながら,「「建築」を消したい」としきりに話していた.亀老山展望台なんて、山の頂上に半分埋めて盛土までして文字通り建築のヴォリュームを消した大胆なものであった。一見「消す」とは無関係に見える初期のポストモダン調のデザインでも、たしか当時ご本人も説明していたように、バブル都市の混沌とした様相のなかで、わざとキッチュにしたり図像を断片化させることで建築を消す試みともいえる(都市の認識が80年代的だったのはやむを得ない)。しかし、普通の建物は内部空間が必要で,当然ヴォリュームが発生するから,それをどう処理するかが問題となる。そういうときには、ひとつには、表層を細分化するという、消去に替わる微分化ともいうべき方法がある。近年のルーバーは,ヴォリュームを「面」へ,「面」を「線」へ,そして「点」へとどんどん微分してしまうことで消す試みであるようだ(彼の言葉でいえば,建築は「砕かれ」「溶かされ」あらゆる事象に対して「負ける」ことで消えるのであろう)。もうひとつ、建築を「意味として消す」という方法があり得る。その典型的な方法のひとつは、類型化した形象=たとえば屋根形や家形=を用いて、周囲と馴染ませ同化させることである。浅草コンペでの屋根型は、こうした方向での「消す」の例ともいえる(イコンとしての家型は最近流行しているところもあるが)。このように、どんなに見た目のスタイルが変わっても,僕には,この「建築を消す」ことこそ,隈建築に通底する本質的な欲求としてあるように思える.その思いは気まぐれどころか,かなり一貫していると思うし,時代ごとにあの手この手で,重たくてどっしりした建築を消すための努力を根気よく続けられているというべきであろう。(・・・・本題はこのあとですが、すでにかなり長くなったので、今回はこの辺で。・・・つづく)(N)
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# by nodesignblog | 2009-06-01 02:47

Tokyo Tech Front

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4月25日、あいにくの雨天だったが、東京工業大学のTokyoTechFront(TTF)の見学会へ行って来た(上写真:筆者撮影)。この建物は、坂本一成研究室(デザインアーキテクト)と、東京工業大学+日建設計(設計)とによるもので、僕が2008年3月に坂本研究室を出るまで、基本構想から基本設計の確定、実施設計の途中まで参加していたプロジェクトでもある。途中、さまざまな困難にぶつかったので、まずは、無事に竣工したことがめでたい。

敷地は東工大の構内だが、東急の大岡山駅前広場に面した好立地なので、大学施設としては画期的なことなのだが、駅前からだれでも自由にアクセスできるように、駅前広場と敷地内の広場が柵や門なしに連続している。大岡山駅前には、篠原一男設計による東工大百年記念館がシンボリックにそびえているので、坂本一成教授を中心とした我々チームの課題は、篠原作品と対立しないように「形態」は抑えつつ、東工大の同窓会である蔵前工業会も収容される、いわば「大学の顔」となるTTFに、どのような存在感を与えることができるかにあった。その方法は、月並みな言い方だが「空間構成」だったと思う。具体的には以下のふたつのことである。ひとつは分棟形式による外部空間のデザインである。延床面積4000㎡程度の建物だが、ひとまとまりにすると、この場所には結構大きな建物になってしまうので、建物を3つに分けた。計画初期段階には、ホールと同窓会館以外の用途が曖昧だったので、先に建物のサイズから決めてしまったのである。その結果、百年記念館や周囲の雑居ビルなどと並んでも、違和感のないスケール感をもち、自然な駅前の風景がつくりだされることを目論んだ。実際に見てこのイメージは実現できていると感じた。ただ、それだけだと周囲に埋もれてしまいかねないので、棟間の広場にPCのパーゴラを架け、外部空間でありながら大学へのゲートしての存在感を与えている。このパーゴラの必要性や、高さや大きさなど、設計ではとても難しいポイントであったが、駅前から見た感じは、その存在が全体をまとめ、かつスケールもほどよく収まっているように感じた。そしてもうひとつは、人々を導く多方向動線のデザインであった。駅前から連続する広場だけでなく、商店街側からアクセスできるスロープが設けられ、それがホールを貫通して建物の反対側まで到達する。将来的には、ブリッジによって線路の反対側のキャンパス敷地まで動線をつなぐことも想定している。このように、建物の四方から、かついろいろなレベルで、内外を横断するように建物にアクセス出来る。この動線要素が、建物の空間構成を立体的で複雑なものにしている。とくに2階のブリッジレベルは、広場と内部と動線が錯綜した、不思議な風景が展開していた。

先輩の某建築家からは、「あのホールを貫通するブリッジって、百年記念館の3階のシリンダーの扱いに対する皮肉?批判なんじゃないの?」と、鋭いコメントをいただいた。たしかに篠原は、あのシリンダーとマッスの関係を「都市のカオス」だとか「零度の機械」へのメタファーとして示したが、それは先に「形態ありき」の空間表現だったといえる。しかし坂本研究室のTTFでは、カオスでは必ずしもないかもしれないが、同様に駅前の活動や、商業、人々の流れなどといった、都市の雑多なリアリティに意識的であろうとし、それを空間構成で表現しようとしている。形態はその結果に過ぎない、くらいの位置づけである。そういう意味では、TTFは極めて没形態的、没表層的であり、百年記念館と、さらには大岡山駅上の、緑化の「表層」に覆われた東急病院と、よい対照を成している。TTFだけでなく、これらの建物に囲まれて、駅前広場としてもなかなか面白い空間になっているので、ぜひ一度見てみてもらいたいと思う。それから、僕は実施設計の途中までしか関われなかったが、杉山さん、實藤さん、原田さんはじめ日建設計のみなさんには本当にお世話になったので深く感謝したい。ありがとうございました。(N)
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# by nodesignblog | 2009-04-30 00:44

ビーチアニマル

2008-2009年は、日本・オランダ年だそうで、その一貫として開催されているテオ・ヤンセン展へ。
日比谷パティオ特設会場で4月12日(日)まで。1500円。テオ・ヤンセン展HP
テオ・ヤンセンは、物理学専攻→画家→ビーチアニマル制作、という経歴のオランダのアーチストです。



美しくて不思議な光景です。
ほかにもたくさん動画があります(もう数年前から話題のようです)。

すごく複雑に見えますが、近寄ってみるとすごく単純な接合部でした。
どこにでもあるプラスチックのチューブとひも・・・。単純というより原始的。
風を受けると動き続け、会場にある手で押すタイプも少しの力で進みます。

まだまだ進化し続けるそうです。夢は、テオ自身が死んでもビーチアニマルは自分たちの力で生きていること。
風向き感じて羽を閉じたり、満ちてきた波をよけるために移動する機能を入れたいのだそうです。

思考の賜物。
何がこれを作らせたのか。

(o)

接合部
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駆動部
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立ち姿
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# by nodesignblog | 2009-04-06 13:07 | 展覧会

野沢正光自邸

e0105010_0223923.jpg先週の日曜日に、建築家の野沢正光さんのご自宅(相模原の住宅,1992,右写真は野沢正光建築工房HPより)にうかがった。野沢さんとは一昨年東工大の授業でご一緒させていただいて、今回は東工大助教の村田さんや安森さんが伺うというのでお声をかけていただいたのである(実は下に書くように隠された主旨があった)。

野沢さんご自身の設計による自邸は相模原の住宅地に、本当にさりげなく建っていた。いわゆる建築家の住宅作品的なそぶりがほとんどない、住みこなされた町家的な佇まいが、とてもよい。だがよくみると、屋根にはOMソーラーのパネルが載っているし、建具や素材、ディテールなど随所に工夫がみられ、ただの住宅ではないことがわかる。中に入ってもその印象は変わらず、特にびっくりするような空間表現はないが、床、壁、天井、開口部、家具にいたるまで、普通に収めちゃいました的な箇所がひとつもなく、あらゆる実験と工夫に満ちていて興味深いものであった。

お話をうかがっていると、「今年はダーウィンの生誕200年かつ進化論の初出版から150年の良い年である」説や、「less is moreといったミースはエコである」説、「ジョンソンのガラスの家はエコハウスを目指していたはず」説など、独特の極めて発見的かつ示唆に富んだ説が出てくるのでとても面白い。その多くが技術論やエネルギーの視点から出てきているように感じたので、フラーをどう考えるかとか、難波さんはどうかなど、質問を浴びせつつ、いろいろうかがった。野沢さんの言い方では、空間といっても、それを成り立たせている仕組みや合理が明確に説明できないと、頼りないものにしかならない。吉村順三の低い天井の良さなども、まずは規格に合わせて材料を少なくするという合理性があったからこそ説得力があったはず。ただし、いくら技術的に合理といっても、フラーのようなハッタリのようなことまでは言えない、とのことだった。野沢さんはご自身を「工作少年」みたいなものだと言っていて、まさにぴったりだと思ったが、僕はそれだけでなく、野沢邸の落ち着いた印象から、野沢さんが語る技術論だけでなく、加えて建築の形式に対するモラルのような感性を感じた。その両方のよきバランスこそが、フラーや河合健二などのマッド系エンジニア?との違いであり、同時に吉村住宅の表面的な二番煎じにも陥らない理由でもあるように感じた。

さらに面白かったのは、では理屈抜きの空間の心地よさみたいなファクターをどう思うかと尋ねると、そういうものは無い、と言い切られたことだった。意外な回答だったので、僕が、たとえばコルビュジェはそういう「言葉にならない空間」の心地よさを信じていて、それをモデュロールで表現しようとしたのではないかというと、あっさり否定され、コルビュジェの空間や造形は彼個人のもので、説明できないからあまり近寄りたくないと、相手にしてもらえなかった。そういう理屈のないものを頼りに設計するのは、まさに理屈に合わない、という意味であろうか。徹底して実際的な工夫を推し進めること。その魅力は、まるで増築を繰り返したかのような、非完結的でブリコラージュのような野沢邸によく現れていた(奥様の手料理も美味しくてすばらしかった。ごちそうさまでした)。

ところで、今回の集まりの隠された主旨は、集まった学生たちに、富山テレビがつくった吉田鉄郎についてのすばらしい番組を見せることだったようだ。野沢さんは、東京中央郵便局が取り壊されることをとても憂慮していた。まったく同感である。日本の建築のより本質的な問題は、建築家自身のことよりも社会的な建築リテラシーの欠如にある。建築関連団体は、もう少し社会的、教育的な発言力をもつための活動を具体的に行う必要があると思う。(N)
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# by nodesignblog | 2009-02-27 00:23

浅草コンペ最終審査

去る12月21日(日)に,台東区役所で浅草文化観光センターのプレゼンテーション&ヒアリングが行われた。すでに台東区のHPに公表されている通り,結果は残念ながら,我々は最優秀作品にも優秀作品にも選ばれなかったが,他6案と比べて明らかに異なった独自の提案をできたこと,それが最終選考まで残るまでには理解されたこと(理解してくれた審査員がいたこと)など,一定の評価を得られたことは大きな収穫だったと思う。

一次通過を聞いたのは11月上旬だったが,今回のコンペは厳正で,応募者は他のプレゼンを見る事も,作品を見る機会すらなかった。
実施に選ばれたのは,屋根型をもつ平屋が積層したような案で,それは,我々がエスキス段階で捨てた案にそっくりだったと学生がいうので,どういう案かと思ってHPを見たら本当にそうだったという,まあ,ある意味皮肉な結果だが,今回のコンペはそういう傾向であったのかと諦めるしかない。

コンペである以上,審査員団の決定がすべてだが,こうなると自分たちの案のよさをアピールできるのは自分たちしかいないので,ちょっと書いておきたい(少しは恨み節も入ってしまうと思うが,お許しを)。
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我々の案は、「スパイラル・ランタン・タワー」と称して、スパイラル状のテラスが、揺らいだような形のランタン・チューブに巻き付いている案だ。雷門前広場や交差点は、まさに浅草観光のへそであり、いつもたくさんの人々で賑わっている。我々はその「人々」をそのまま表現する建物にしたかったのである。浅草は「とおり」の文化が息づく町だ。その「とおり」が、螺旋状にのぼっていく。人々がそのテラスに立ち、いろんな高さから浅草や東京を眺める。祭りやカーニバルの時には観客席にもなる。夜はガラス張りの建物がやわらかく町を照らす。ファサードやヴォキャブラリーに頼らない、「ひと」の活気がそのまま表現された浅草らしいランドマークなのである(テラスは日本の深い庇にも通じるものでもあり、その彫りの深い外観は浅草に合うとも思っているけど)。

他5案も残念ながらまだ見る事ができていないが,話に聞く限りではルーバーや和紙でファサードをデザインしたもの,PCブロックの積み木的な構成,ずれたスキップフロア,ずれたコアの操作など,だいたい想定内の手法のバリエーションのなかから選ばれていたようだ。いずれも構成部材のプロポーションや位置を操作することで,微細な多様性をどうつくるかといった,このところ繰り返されている問題設定のなかでのバリエーションだと思える。

そんななか,我々のヒアリングでの北山恒さんの,「空間構成で勝負しようとしているということだと思うが・・・」というコメントに象徴されるように,我々の案だけは,上に書いたバリエーションのような予定調和的レトリックを外し,雷門前の交差点や浅草というまちに対して,ダイレクトにユニークな「空間」で応答できたと自負している。それが伝わった審査員がいてくれたなら,それは我々にとってだけでなく,日本の建築界にとっての救いだと考えたい。

今回の結果について,ある建築家は,「現代の構図を典型的に示しているようで,かなり腹立たしい」といっていた。僕が勝手に解釈するにその「現代の構図」とは,ひとつには表層や言語的なわかりやすさだけに容易に流されてしまう傾向だと思うが,一方では,結局そういう状況を助長しているのは,やはり一部の建築家であり,そういう傾向を問題にできるアカデミズムやメディアの不在なのではないかとも思える。現代はそういう時代だといってしまえば,それまでかもしれないのだが,逆に僕は,もはやそういう時代ではないと考えたい気持ちもある。なぜなら建築には,インテリアデザイナーやファサードデザイナーや,マネージャーにはできない,建築にしか解決できない問題があるはずだからだ。それを「空間」とだけいうのはあまりに雑駁かもしれないが,しかし単なるスタイルやアイコンとは水準が異なる建築固有の質があるはずだ。今回のコンペでもういちど,そういうことを考えさせられた。

何はともあれ,今回のコンペは,僕が神奈川大学で研究室を立ち上げた年に,4年生が参加した,初めてのコンペだったので,多くの実力ある建築家たちの案を押しのけ,301応募案のなかから最終の7社まで残ったことは,我々や学生たちの大きな自信になったし,みな本当によくがんばったと思う。傍聴者の声を聞く限り,我々の案は,建築的にみて,野心的かつ意欲的な「空間」に対する案であることは間違いないと思えたのは収穫だった。がんばってくれた研究室と事務所の皆に感謝したい。(N)
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# by nodesignblog | 2008-12-24 22:03

ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力

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今朝、電車に乗っていたら築地から乗ってきた陽気な家族に囲まれました。
「いやー、楽しかった。あとはホテル帰って寝て、夜の宴会にそなえるだけ!」
というお父さんのセリフがよかったです。

少し前に、 「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」という展覧会に行きました。
ネオ・トロピカリアとは、欧米文化から脱して独自の文化を作り出そうと、60年代のブラジルでおきた芸術運動です。ブラジル移民100周年を記念して、ネオ・トロピカリアの立役者エリオ・オイシチカと、その影響を受けたアーティストや建築家など、27人の作品が展示されています。

思わず笑ってしまったのが、マレッペ(1970~)の写真。青空をバックに綿菓子を食べる人の写真は、詩的で、カラッと明るく、生きることを肯定して楽しんでいる感じです。まさに今朝の築地のお父さんのように陽気。日常に端を発した何気ない写真なのですが視点がおもしろく痛快です。二つ合せの大きな金ダライを被った、パンフレットの写真もマレッペのものです。

ルイ・オオタケ(建築家、1938~、ブラジル大使館など)の町並改装プロジェクトは、サンパウロのスラム街エリオポリスの家のファサードをアーティストと住民が色とりどりのペンキで塗り替えたもの。スラムに住む職のない人々に、塗装職人が技術を教えつつ行ったようです。望みのない生活をおくっていた人が手に職をつけて、自ら町を活性化することができるなんてすばらしいプロジェクトですね。それにしてもこの色の威力はすごい。

ポジティブな国民性の現われか。
疲れた頭に効きますよ。
(O)
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# by nodesignblog | 2008-12-03 20:18 | 展覧会

夏の邸宅

舟越桂作品展 夏の邸宅

「すごくよかった」と、ある女性に勧められ渡されたパンフレットを見ると、以前見たストイックな印象とは全く違う作品の写真。とはいっても写真なので、少し作風が変わったのかなくらいの気持ちで出かけたら、圧倒されてしまいました。

美術館を入って、まず目に入るのが「森に浮くスフィンクス」。エントランスホールに一体だけ、4本の木の枝に胴体を支えられた、高いところから見下ろすような背の高い作品。「遠い手のスフィンクス」は左手が義手のような異形。近作のスフィンクスシリーズとよばれる両性具有の彫刻は、ダビデ像のようなたくましい男性の身体に大きくて綺麗な女性の胸、皮で作った長い耳をもつ一連の彫刻です。異形、非対称の身体、焦点の定まらない瞳、、で、なんともいえないおさまりの悪さがあります。それが返ってこちらの身体に作用するというか、、、。

「私の中の緑の湖」は鮮やかな緑色のグラデーションで彩色された作品。「言葉をつかむ手」は一際美しい顔をもつ女性の彫刻で、バスルームに一体だけ置かれています。この部屋だけ自然光が入り、淡い緑の大理石と白い陶器の質感とあいまって優しい雰囲気を作っていました。「戦争を見るスフィンクスⅡ」は、唯一はっきりとした表情があり、般若のような怒りと、憂いのある表情は一度見たら忘れられません。

場所は、庭園美術館です。何も装飾のない場所におかれていたら、彫刻の存在感が大きすぎて違った印象だったかもしれません。大理石や厚みのある無垢の木材、ブロンズのグリルなどの本物の材料と濃厚な色合いのインテリアが、彫刻と観る人との間の緩衝帯になってかろうじてリアリティが保てるような(リアリティが作られているような?)、空間と一体となった作品展でした。(O)
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# by nodesignblog | 2008-09-16 04:47

黄金スタジオby曽我部研究室+マチデザイン

e0105010_2502538.jpg大学でお世話になっている曽我部昌史さんに招待状をいただいたので,9月11日に横浜市のアートイベント「黄金町バザール」のオープニングへ行ってきた。神奈川大学の曽我部研究室とマチデザインの丸山美紀さんが,会場のひとつである「黄金スタジオ」を設計したのである(SDレビュー入賞)。黄金町周辺といえば,あの黒澤の「天国と地獄」でも,犯人の山崎努がうろつくやばい町として出てきた程で,つい最近までたいへん荒れた風俗街であった。それを地元住民と横浜市,神奈川県警が協力して,ここ数年かけて違法な風俗店をようやく一掃した。
挨拶した中田宏横浜市長(右写真(横浜市HPより)。まだ43歳!)の話では,ここに至るまでにもたいへんな苦労があったようだが,さて,これからの街をどうするのか,ということで,アートを新しい街の核にしようというのである。なかなか野心的な試みである。

高架上の京急黄金町駅から地上に降りると,その高架下の空間は,占拠されるのを恐れているのか延々と高い仮囲いで覆われている。黄金スタジオは木造片流れ屋根の平屋建築で,その仮囲いに割り込むかたちで,8スパン分の空間を占める(右写真(公式HPより))。内部の面積は300平米くらいか。表側?は道路を挟んで大岡川に面している。この川は幅も水面の高さもほどよいスケールで,街の風景の核となるポテンシャルを感じた。春は桜がきれいらしい。高い壁面をステンレスに覆われたスタジオは,1スパンごとに大きな出窓を川へ向けていて,内部の活動を見せる川沿いのショウウィンドウになっている。e0105010_25738100.jpg
当日はしまっていたがステンレスの壁の一部は開口になっているようでもあった。裏にまわると,片流れ屋根の低い側がガラス框戸の開口面で路地から自由に入れるようになっている。中は建物の端から端まで土間になっていて,その奥にアーティストのスペースが昔の商家の「ひろま」のようなかたちで一段高く面している。プランもつくり方もいたっておおらか?だが,まあそのくらいがこの場所にはちょうど合っているかもしれない。建物の両面をインターフェースの質を変えつつ,どちらも表として取り扱う意識は,この場所の読み取り方としては至極まっとうで好感が持てた(この点,鉄骨フレームとガラスで(この種の建物としては)丁寧に構成し,中二階にデッキを這わせ,正統的な建築をやっている飯田善彦氏による日ノ出スタジオとは対照的で面白かった)。しいて難癖をつけるとすれば,土間が道路面から段差があってあまり気軽に入れない感じがしたこと,それと,内部の幅が少し浅くなってもいいから,できれば軒を出して,路地から内部,そして反対側の道までもう少しスムースにアクセスできるといいと思った。あとは,今後できるなら,仮囲いを侵食してどんどん長くしていければ面白いだろう。

曽我部さんの建築は,自邸も以前みせてもらったが,どう考えればいいのか,なかなか手ごわい。建物が建物だけで読みとられるのを望んでいない感じというか。もちろん現実の目的なしに建築行為は始まらないわけで,曽我部さんの建物がもっている,現実や要求に対する素直さには共感できるし,その素直な対応は曽我部さんの建築に対するリアリズムの現れだと思うのだが,では,建物がそこでの活動や出来事のノンフィクション,あるいはドキュメンテーションなのかというと,それほどの重さを建築に期待していないようなそぶりも感じる(もちろん最近多いフィクショナルでキャッチーな構成による表情とは全く異なる)。むしろ,そういう真のリアルさは,そこでの人々の活動としてこそ現れ出るべきであって,建築というのはその背景でよいと考えているのかもしれない。もしそうなら,その考えには賛成できるのだが,一方で,かつてジャッドなどのミニマルアートが,ある意味では作品を背景にして観客を対象にしてしまうという転回をやったときに,それはリテラル=自明的でシアトリカル=演劇的であり,作品にはそれ自体で作品となるべき「自律性(形式性?)」が必要なのだ,という批評があったのをふと思い出した。樹木や太陽の動きなどには,人間とは関係のない独自の原理が存在している。建物が本当に人々の生活のリアルな背景になるためには,逆説的だが,そういうものに似たある種の独自な「自律性」も少しは必要なのかもしれないとも思った。といってもその自律性をどこに求めるべきか。様々な事象をひっくるめて自律性が成り立つか成り立たないか,ぎりぎりのところを曽我部さんは探っているのかもしれない。(N)
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# by nodesignblog | 2008-09-16 02:40

鳥の演劇祭

以前に紹介した、鳥取で活動する劇団"鳥の劇場"が9月13日から演劇祭を行っています。その名も「鳥の演劇祭」。

鳥取で活動を始めて2年くらいだと思いますが、さっそく県や町の方も巻き込んでの演劇祭です。さすがの実行力。

県外からの反応は意外と多いそうですが、地元の方にももっと来て欲しい!とのことです。
間近で良質なお芝居を観られるチャンスです。お近くの方もそうでない方も、是非一度足を運んでみてください。
(O)


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# by nodesignblog | 2008-09-16 01:47