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続・エコノミック・コレクトネス論 その3(結)

(前回からの続き)「エコノミック・コレクトネス」(建築文化9802)は、現代資本主義や商業主義(さらに大衆的民主主義)システムがつくりだす時代的風潮の徹底によって、新たな正当性を生み出す可能性について、やや楽観的に言及したものだった。現代のグローバル経済はまさにそのシステムを徹底させているが、重要な点は、このシステムには価値を正当化する論理が欠けていることだ。だからどんな「建築」を主張しても、だれもその価値を客観的に決定できない。先に隈さんが「エコノミック・コレクトネス」を実践していると書いたのは、その状況を踏まえた「スタンス」が際だっているからである。

隈さんの「建築の消去」は建築を社会に溶かし込むという意味で(また藤森さんの「野蛮」は私性に閉じこもるという意味で)、現代の時代風潮や精神を背後に仮定しつつ、建築という分野の固有性を定義することにはやや懐疑的な姿勢を感じる。そもそも「建築を消す」には、まず厳然たる「建築」概念が前提されなければいけない。それはまず近代建築概念であり、その点彼らの根底には、70年代以降の磯崎新的な「建築」解体の影響(正確には「誤解」→本ブログ「磯崎新北九州三部作」を参照)があると思う。彼らはいわばその極右として、建築言語の意図的な濫用や形式の無関心に至ったのかもしれない。いずれにしても、ここで僕が少し心配するのは、10年前にはあまり意識できていなかったのだが、隈さんの「建築を消す」志向が、やや抽象的な言い方だが、以下に述べるようにエコノミック・コレクトネスの最もよくない側面のひとつである、新種の「政治的正当性」を獲得するための手続きに陥ってしまうことである。

一般論として、自由な経済活動は、社会(民主)主義であれば政府が行うリスク・マネージメントをも、自らのシステムのなかにつくるほかないが、とくに現代の自由主義社会は、いわゆるモンスター・クライアント対抗策や個人情報保護など、あらゆるリスク・マネージメントのために、数多くの審査や認定のシステム(←天下りの温床)への依存度を高め、煩雑な回避・承認手続きを産み、それが膨らむことにより社会は官僚主義的に、しかも「自発的」に形式化している。今まで建築の世界で官僚的な「形式化」といっても、せいぜいがちがちに計画学どおりの硬直した建築を指すような素朴なイメージしかなかったが、現代社会の管理化はもっと巧妙に、しかも自発的に進行している。日本では、もともと官僚制度が強いところに、小泉政権の新自由主義的政策が重なり、それによってかえって管理強化を促進させたと思えるのはある意味皮肉で切実な問題だが、これもたとえばD.ハーヴェイのように「新自由主義」などを権力闘争として見るように、日本の場合には資本家と結託した一部の官僚機構のそれであるとするなら、ある意味当然の帰結ともいえる。あるいは、かつてM.ヴェーバーは究極の社会システムを官僚制に見ていたが、それとは異なった経緯を辿り、どうやらエコノミック・コレクトネス社会は、皮肉にも官僚制的な管理社会を強化するらしい。これがいわば、新種の「政治的正当性」を自発的に強要する社会だ。そういう社会の建築はどうなるか。厳しい経済と正当性の監視にがんじがらめになってしまったような、アメリカの現代建築がその典型的な例かもしれない。

e0105010_392714.jpgやや脱線したが、つまり隈さんの建築に象徴的に感じるのは、良くも悪くもそうした現代的な風潮のなかでの建築のあり方である。つまり「エコノミック・コレクトネス」的状況を意識しながら、そこを突き進むというよりも、その作品の「見えがかり」によってかわし、建築の文脈的にも、また対−世の中的にも、新「政治的正当性」を表明するスタンスである。近作である根津美術館(右写真:根津美術館HPより)における、屋根形や素材を用いた表現の精度の高まりには、素直に感心し敬服する一方で、その精度ゆえに上記の新「政治的正当性」が透けて見えてくる気がする。おそらく隈さんの社会認識は、たとえばレム・コールハースと並ぶほど現代的でニヒルだと思うが、隈さんに比べればコールハースは正面突破で、エコノミック・コレクトネス的アクセルを愚直に踏み切り、それを古典的(モダニズム的な)建築言語やプログラムを内側から更新するために利用する。だからコールハースの建築は安易な政治的正当性から逃れ続け、常にある種の悪魔的性格を伴う。しかし資本主義をあまりに美学的に捉え過ぎともいえるためか、実際の資本主義システムには受け入れられず、結果彼の巨大資本プロジェクトの多くは頓挫し、結局中国などの絶対的「政治的権力」を借りて作品を実現しているというのは皮肉でもある。一方隈さん(や藤森さん)は、そのような矛盾?を見透かした上で、資本主義システムにも、上で述べた新「政治的正当性」にも順応するしたたかさをもっている。そこでは、コールハースとは対比的に、プランニングや空間構成よりも「見えがかり」へ向かうことで、結果的であれ、新「政治的正当性」への配慮を主張するように見える。そのことを通して、行政の審査や認定システムと同じように、新「政治的正当性」の固定的な価値観が、閉じた社会との対応へと、建築を追い込みかねないように思えるのである。やっかいなのは、そうした社会側から見れば、まことしやかに建築が「開かれて」いるように見えることである。

何でも飲み込む「エコノミック・コレクトネス」的システムに対して、たしかa+uの別冊で磯崎新が触れていたように、たとえば建築を「文化」としてみるならば、その「コレクトネス」は、やはりその内側に、政治や経済の正当性に頼ることなく、建築だけが発見できる問題として見出されることが、本当に建築を開くことなのかもしれない。こうした考えは、ある見方からすれば、建築と社会との関係を絶ち、閉じこもる方向だと捉えられるかもしれない。だが、そもそも建築と社会との「関係」とは何だろうか?その「関係」において、建築が自らのテリトリーとして独自に主張できることは何だろうか。そう考えていくと、具体的な諸空間の編成を思考し、その形式を開発することを考え続けるしかないようにも感じている。(N)
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by nodesignblog | 2010-02-01 02:37