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野沢正光自邸

e0105010_0223923.jpg先週の日曜日に、建築家の野沢正光さんのご自宅(相模原の住宅,1992,右写真は野沢正光建築工房HPより)にうかがった。野沢さんとは一昨年東工大の授業でご一緒させていただいて、今回は東工大助教の村田さんや安森さんが伺うというのでお声をかけていただいたのである(実は下に書くように隠された主旨があった)。

野沢さんご自身の設計による自邸は相模原の住宅地に、本当にさりげなく建っていた。いわゆる建築家の住宅作品的なそぶりがほとんどない、住みこなされた町家的な佇まいが、とてもよい。だがよくみると、屋根にはOMソーラーのパネルが載っているし、建具や素材、ディテールなど随所に工夫がみられ、ただの住宅ではないことがわかる。中に入ってもその印象は変わらず、特にびっくりするような空間表現はないが、床、壁、天井、開口部、家具にいたるまで、普通に収めちゃいました的な箇所がひとつもなく、あらゆる実験と工夫に満ちていて興味深いものであった。

お話をうかがっていると、「今年はダーウィンの生誕200年かつ進化論の初出版から150年の良い年である」説や、「less is moreといったミースはエコである」説、「ジョンソンのガラスの家はエコハウスを目指していたはず」説など、独特の極めて発見的かつ示唆に富んだ説が出てくるのでとても面白い。その多くが技術論やエネルギーの視点から出てきているように感じたので、フラーをどう考えるかとか、難波さんはどうかなど、質問を浴びせつつ、いろいろうかがった。野沢さんの言い方では、空間といっても、それを成り立たせている仕組みや合理が明確に説明できないと、頼りないものにしかならない。吉村順三の低い天井の良さなども、まずは規格に合わせて材料を少なくするという合理性があったからこそ説得力があったはず。ただし、いくら技術的に合理といっても、フラーのようなハッタリのようなことまでは言えない、とのことだった。野沢さんはご自身を「工作少年」みたいなものだと言っていて、まさにぴったりだと思ったが、僕はそれだけでなく、野沢邸の落ち着いた印象から、野沢さんが語る技術論だけでなく、加えて建築の形式に対するモラルのような感性を感じた。その両方のよきバランスこそが、フラーや河合健二などのマッド系エンジニア?との違いであり、同時に吉村住宅の表面的な二番煎じにも陥らない理由でもあるように感じた。

さらに面白かったのは、では理屈抜きの空間の心地よさみたいなファクターをどう思うかと尋ねると、そういうものは無い、と言い切られたことだった。意外な回答だったので、僕が、たとえばコルビュジェはそういう「言葉にならない空間」の心地よさを信じていて、それをモデュロールで表現しようとしたのではないかというと、あっさり否定され、コルビュジェの空間や造形は彼個人のもので、説明できないからあまり近寄りたくないと、相手にしてもらえなかった。そういう理屈のないものを頼りに設計するのは、まさに理屈に合わない、という意味であろうか。徹底して実際的な工夫を推し進めること。その魅力は、まるで増築を繰り返したかのような、非完結的でブリコラージュのような野沢邸によく現れていた(奥様の手料理も美味しくてすばらしかった。ごちそうさまでした)。

ところで、今回の集まりの隠された主旨は、集まった学生たちに、富山テレビがつくった吉田鉄郎についてのすばらしい番組を見せることだったようだ。野沢さんは、東京中央郵便局が取り壊されることをとても憂慮していた。まったく同感である。日本の建築のより本質的な問題は、建築家自身のことよりも社会的な建築リテラシーの欠如にある。建築関連団体は、もう少し社会的、教育的な発言力をもつための活動を具体的に行う必要があると思う。(N)
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by nodesignblog | 2009-02-27 00:23