隈研吾(と、少し藤森照信)(続・エコノミック・コレクトネス論) その2

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「軽い」,「弱い」,「乾いた」など、建築家は様々な言葉でよくイメージを語るが、実はその内容はあまり重要ではない。重要なのは、むしろそういう比喩が、建築の物質性や形式性の革新のためのものなのか,あるいはあくまでも建築の意味を問うためのものなのかによって、建築家の思考も作品の様相が大きく異なってくることではないだろうか。後者の「意味」を問う人たちは、往々にして「建築らしい形式」をある程度ひきうけつつ意味を変えようとする。それがなくなると、建築がファッションになったり、根無し草になってしまうことを警戒するからだ。一方、物質や形式の革新へ向かう人たちは,そういう「建築らしい形式」を超えること(いわゆる近代の枠組みとされる)こそが新たな(現代の)建築へ繋がると考えている。実はその背景には、時代精神的なものを仮定し,それに対応する表現を目指す発想が潜んでいるように思える。

隈さんの「消す」という表現が物語る独特な性格は、認識としては上記の両方を理解しつつも、方法としてはどちらのスタンスも選ばない、ある意味でニヒルな姿勢である。別の言い方をすれば、隈さんしてみれば、どちらも空間の枠組み(架構や平面)の形式にこだわる時点で同じ穴の狢であり、そこにこだわることに関心がないか、そんなことは近代の方法論を運用すればよい、とでも言いたげなのである(このあたり、余談だが藤森照信のスタンスも実はよく似ている、あるいは藤森さんは、より輪をかけてニヒルともいえる)。しかしそうしたニヒルさの一方で、徹底して建物の「見えがかり」、もう少し正確には,建築と周囲との「見えがかり」には、とことんこだわる。その見えがかりのゴールイメージが「建築を消す」ことであり、そのために、建築の物質的な問題も意味の問題も、なんでもあり式に駆使されるのではなかろうか。

もうひとつ、隈研吾という建築家としての存在の興味深い点は、その驚くべき文脈力である。住宅,都市,歴史,社会,経済,政治,和風,サイバー,エコロジー,職人芸,海外など,どんな話題のときにも,ふとみると隈さんがいる。現代社会の様相に対するどこまでも貪欲な接触は,上で書いた現代の「時代精神」をつきとめようとする欲求かもしれない。独特なのは、普通そういう欲求を共有している建築家の多くは、つい近代建築を乗り越えるなどと言いはじめ、そのとたんに構造とか平面とかといった「近代建築的」概念と葛藤し始めるわけだが、残念ながら世の中の人々の多くは、そのようなことにはほとんど関心はない。そこが大衆と専門家の断絶の根ともいえ、そこに終始しても建築が閉じこもるだけであり、実はこの構図こそ既に近代建築やポストモダン建築が陥った事態ではなかったか?と、隈さん自身が考えたかどうか知らないが、はもはやそんな枠組みはすっとばして,一直線にモノ自体の「見えがかり」へと接続するのである(こうしたスタンスも、現れ方は大きく違えども,やはり藤森照信とかなり近いことに改めて気づかされる)。
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このようにして隈さんは、現代社会で話題とされる様々な文脈と接続しつつ、形式ばった構造もプランの問題もすっ飛ばして、建築の「見えがかり」に直結する。それは、スキャンダルとヴィジュアルにダイレクトに訴え、そのわかりやすさはまさに現代的である。ある意味では、これまでの建築家たちの、どのようなエゴイスティックな表現からも距離を置いている、ように見える。しかし、少し結論を先取りして書くならば、隈さんや藤森さんのそういうスタンスも、結局のところ、現代の時代精神を仮定しつつ、建築の形式性そのものを否定する時点で、かえって狭い世界に囚われているようにも思えなくもない、のは僕だけだろうか?(これについてはまた次回)。(つづく)(上写真=森舞台/宮城県登米町伝統芸能伝承館:uratti.web.fc2.comより、下写真=タンポポハウス:tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jpより)(N)
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by nodesignblog | 2009-06-15 00:00
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